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2022-05-29
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https://doi.org/10.18910/4544
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aes05-169
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論文情報
タイトル
リテラシー研究の原状と課題
別タイトル
Current Situation and Problems in the Study of Literacy
タイトル (ヨミ)
リテラシー ケンキュウ ノ ゲンジョウ ト カダイ
著者
長岡, 智寿子
長岡, 智寿子
著者の別表記
Nagaoka, Chizuko
著者 (ヨミ)
ナガオカ, チズコ
抄録
「文字の読み書きができる」ということは、今日のように高度、かつ複雑な情報化社会においては、半ば当たり前のこととして受け入れられている。このように、自明のこととされているリテラシー(識字)だが、それは一体何を意味しているのだろうか。又、逆に「読み書きができない(非識字)」ということは、どういうことなのであろうか。一般に、リテラシーは3R'sと捉えられ、その辞書的な意味では、文字の読み書き、または読み書きの能力を示す言葉であり、日本語では「識字」という言葉で表現される。機能的に言えば、文字で書かれた文化への接近能力があるということを示し、その高さはそのままその国民や民族、個人の知的水準を表わすシンボルと考えられている。だが、このリテラシーという言葉の裏側には、容易に説明しきれない様々な問題が絡み合って、秘められている。例えば、「教育の核心はリテラシーであり、それさえ身につけておけば生活していける。」という単一的な識字観が肯定的に捉えられる時、リテラシーは諸個人にとって、政治的、経済的、社会的なものに近づく機会を提供するものと解釈される。しかし、人間の知的能力が読み書き算の能力とそれほどはっきりと比例していないことは、多くの先行研究が明らかにしている。現に、何らかの理由により、学習の機会を得ることができなかった人々や、文字によるコミュニケーションが重要視されていない地域の人々にとって、リテラシーの意味が先の文脈と同様に受け止められないことは明らかであろう。世界を広く見渡すと、文字を使用しない社会、又は使用してこなかった社会は数多く存在する。いわゆる無文字社会は、その社会固有のシステムによって、それなりに立派に成立している。文字を使用する社会を「文明社会」とするならば、それに対する社会は果たして「未開社会」と単純に位置づけられるのだろうか。「未開」と「文明」、それは異なる社会であることに違いないが、両者は同じように時を経て、歴史という長い時の流れをたどってきているのである。本稿では、リテラシーを保持していることが、当然のこととして受け止められている状況に対し、改めて疑問を投げかけながら、その様々な意味を問い直してみたいと考える。何故ならば、そうすることが、今まで自明とされてきた考え方やものの見方を再検討する契機になると考えるからであり、またリテラシー研究の新たな視座の構築につながると思われるからである。
公開者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
公開者の別表記
Department of Education Graduate School of Human Sciences, Osaka University
公開者 (ヨミ)
オオサカ ダイガク ダイガクイン ニンゲン カガク ケンキュウカ キョウイクガクケイ
掲載誌名
大阪大学教育学年報
巻
5
開始ページ
169
終了ページ
183
刊行年月
2000-03
ISSN
13419595
NCID
AN1055404X
URL
http://hdl.handle.net/11094/4544
言語
日本語
DOI
info:doi/10.18910/4544
カテゴリ
紀要論文 Departmental Bulletin Paper
大阪大学教育学年報 / Vol.5
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著者版フラグ
publisher
NII資源タイプ
紀要論文
ローカル資源タイプ
紀要論文
dcmi資源タイプ
text
DCTERMS.bibliographicCitation
大阪大学教育学年報.5 P.169-P.183
DC.title
リテラシー研究の原状と課題
DCTERMS.alternative
Current Situation and Problems in the Study of Literacy
DC.creator
長岡, 智寿子
DC.creator
Nagaoka, Chizuko
DC.publisher
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
DC.language" scheme="DCTERMS.RFC1766
日本語
DCTERMS.issued" scheme="DCTERMS.W3CDTF
2000-03
DC.identifier" scheme="DCTERMS.URI
http://hdl.handle.net/11094/4544
DCTERMS.abstract
「文字の読み書きができる」ということは、今日のように高度、かつ複雑な情報化社会においては、半ば当たり前のこととして受け入れられている。このように、自明のこととされているリテラシー(識字)だが、それは一体何を意味しているのだろうか。又、逆に「読み書きができない(非識字)」ということは、どういうことなのであろうか。一般に、リテラシーは3R'sと捉えられ、その辞書的な意味では、文字の読み書き、または読み書きの能力を示す言葉であり、日本語では「識字」という言葉で表現される。機能的に言えば、文字で書かれた文化への接近能力があるということを示し、その高さはそのままその国民や民族、個人の知的水準を表わすシンボルと考えられている。だが、このリテラシーという言葉の裏側には、容易に説明しきれない様々な問題が絡み合って、秘められている。例えば、「教育の核心はリテラシーであり、それさえ身につけておけば生活していける。」という単一的な識字観が肯定的に捉えられる時、リテラシーは諸個人にとって、政治的、経済的、社会的なものに近づく機会を提供するものと解釈される。しかし、人間の知的能力が読み書き算の能力とそれほどはっきりと比例していないことは、多くの先行研究が明らかにしている。現に、何らかの理由により、学習の機会を得ることができなかった人々や、文字によるコミュニケーションが重要視されていない地域の人々にとって、リテラシーの意味が先の文脈と同様に受け止められないことは明らかであろう。世界を広く見渡すと、文字を使用しない社会、又は使用してこなかった社会は数多く存在する。いわゆる無文字社会は、その社会固有のシステムによって、それなりに立派に成立している。文字を使用する社会を「文明社会」とするならば、それに対する社会は果たして「未開社会」と単純に位置づけられるのだろうか。「未開」と「文明」、それは異なる社会であることに違いないが、両者は同じように時を経て、歴史という長い時の流れをたどってきているのである。本稿では、リテラシーを保持していることが、当然のこととして受け止められている状況に対し、改めて疑問を投げかけながら、その様々な意味を問い直してみたいと考える。何故ならば、そうすることが、今まで自明とされてきた考え方やものの見方を再検討する契機になると考えるからであり、またリテラシー研究の新たな視座の構築につながると思われるからである。
DC.identifier
info:doi/10.18910/4544
citation_title
リテラシー研究の原状と課題
citation_author
長岡, 智寿子
citation_publisher
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
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日本語
citation_date
2000-03
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大阪大学教育学年報
citation_volume
5
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169
citation_lastpage
183
citation_issn
13419595
citation_public_url
http://hdl.handle.net/11094/4544
citation_doi
info:doi/10.18910/4544